しんぺーの日記

日々のあれこれを書き連ねていく日記のようなブログです

会議力 奥出直人著 平凡社新書について

 久しぶりの投稿です。

 

 今日は「会議力 奥出直人著 平凡社新書」をまとめます。

 

 参考文献は

「知的生産の技術 梅棹忠夫著 岩波新書

「発想法 川喜田二郎著 中公新書

「続・発想法 川喜田二郎著 中公新書

「「知」のソフトウェア 立花隆著 講談社現代新書

「考える技術・書く技術 板坂元著 講談社現代新書

です。

 

  • 会議力の要約

・1,2,3章の要約(情報整理術と会議の共通哲学への考察)

・6章の要約(上の要約がワークスタイルにもたらす変化)

・7章の要約(新しい組織のありかたと各個人の独立、自立)

 

・1,2,3章の要約(情報整理術と会議の共通哲学への考察)

 メンバーが離れた場所にいても、情報共有プロセスと時間シンクロさせることで、メンバーは自律的かつ分散的に活動できる。

 この一文が核だが、本書の3章にあるように、哲学をメンバーが理解するためにこの一文を掘り下げていく。まずこの一文を句読点で三分していただきたい。つまり「メンバーが離れた場所にいても良い」「情報共有プロセスと時間シンクロさせること」「メンバーは自律的かつ分散的に活動できる」に分けるということだ。「情報共有プロセスと時間シンクロさせること」=A、「メンバーは自律的かつ分散的に活動できる」=Bとする。Aに対しては「知的生産の技術 梅棹忠夫著」「発想法 川喜田二郎著」「続・発想法 川喜田二郎著」、Bに対しては「「知」のソフトウェア 立花隆著」を実際に読んで手がかりとした。「メンバーが離れた場所にいても良い」=Cとし、こちらは最後に言及する。

 A、Bは「どのようにセレンディピティが生ずるか」という点で別の領域にいた。会議力はAとB両者のセレンディピティが生ずる領域の違いを活かし、一見相反していたAとBを一連の流れに乗せた。

 

・A=「情報共有プロセスと時間シンクロさせること」

 ◯梅棹(と川喜田)はセレンディピティが生じるのは頭の外であるとした。

梅棹は頭のなかで無意識にやっていたことを外に取り出して操作を加えられるようにした。こういった操作を頭の外で何度も繰り返し行うことでセレンディピティが生ずるとした。

梅棹は会話で急にひらめきが生ずることにも注目した。会話はAそのものである。会話は情報共有プロセスと時間シンクロのことそのものだからだ。

 川喜田はまず情報を広げた。内部観察や外部観察、ブレーンストーミングを通して広げた。その後で広げた情報から加乗減除の精神で素直に小→大と関係を作り上げていく。この関係を作り上げていく過程がKJ法である。その後、関係に基づくモデル図の作成し、文章に起こした。グループで情報を広げ、関係を作り、図式化し、文章に起こす流れを踏襲する際、グループは関係を作り上げるKJ法に入る前段階で躓くと川喜田は言及した。グループ活動に入る前の情報共有に問題があった。

 広げた情報に「この情報は○○の主観である」「これは街の一人の話である」などのように情報の出どころを詳細にし、「とき」「ところ」「出処」「採集記録者」を示すなどして、誤解を減らそうと努力していた。少し余談だが、主観も主観であると意識していればそれは立派なデータだとする姿勢には発見があった。

 川喜田は「情報共有の際プロセスが落ちなければいいのであって、それをメンバー全員に要求すればよく、そのために共同で行動すればいい」と言った。川喜田は明確にどこでヒラメキが生ずるかは言及していなかった。しかし人とのやり取りの中、情報を外部に出し、視覚操作を加える中に見出していたのではないか。

 よってAの「情報共有プロセスと時間シンクロさせること」は二者のセレンディピティは外部で生じるという思想と重なる。

 

・B=「メンバーは自律的かつ分散的に活動することができるようになる」

◯立花はセレンディピティが生ずるのは頭の内であるとした。

 立花は「目的ありきのアウトプットを強烈に意識した情報収集こそ意味がある」と言った。「アウトプット先行型で得た情報に、深み、ゆらぎや多様性を持たせるべくインプット先行型の情報収集をすることで、ヒラメキは生まれるのではないか」と言った。よってただ何となく情報を収集し、イタヅラに広げていく川喜田の姿勢に反発した。 「脳の中でやっていたことをわざわざ外部で行うということはかえってひらめきの速度を奪ってしまう」と言った。「セレンディピティのようなよくわからないものに関しては、意識内作業であったものを物理作業(外部作業)に置き換えることはコンピュータにふさわしい」と言った。

 立花の「意識内作業によってひらめきが速度を持って生じる」という姿勢は各個人のひらめきへのプロセスを重んじる方へ発展した。ひらめきへのプロセスを持つ各個人の集合(=異なるシステムに存在する知識の集合)をコラボレートさせる(=を連動させる)仕組みを立花はエコロジー的思考と呼んだ。コンピュータ・ネットワークの世界においては分散システムということになる。

 よってBの「メンバーは自律的かつ分散的に活動することができるようになる」は立花のセレンディピティは内部で生じるという思想と重なる。

・C=「メンバーが離れた場所にいても良い」

 AとBの哲学を余すことなく再現可能であるなら、メンバーは物理的制約を経ち、離れたところにいても良い。

 Aにおいては、「情報共有を疲れずに自然にできる」、「ときに会話しているかのような気楽さがある」、「会話のような時間同時性がある」が満たされればいい。Bにおいては「個々に重きをおいた上で自主的に余すことなく情報を発信できる」、「個々が分散して情報を発信し合える」が満たされればいい。AとBにおいて、以上の要素を満たすならばCでもよい。電子メールによってCが実現する。

 AとBの哲学を元にCというこれからの可能性が見えてくる。6,7章の要約へとつながる。

 次ではA、B、Cが私達のワークスタイルにどんな変化をもたらすのかまとめる。

 

 

◯6章の要約(A、B、C、がワークスタイルにもたらす変化)

 Cの活用により、ヴァーチャル・ワークプレイス(=メンバーが離れたところにいてもいい具体例)を作る必要がある。メンバーはAとBの哲学を理解した上で、情報共有プロセスと時間シンクロさせ、自律的かつ分散的に活動できる。メンバーはその上で電子メールを活用し、物理的制約から解放される。

 ただし管理者(=リーダー)が自分のリアリティを超えたプロジェクトを作ってしまう現場との乖離は注意すべき。管理者はプロジェクトが出来上がっていくプロセスを実感でき、何となくでもプロジェクトは掴めそうな大きさであるべき。

 次ではこれからの新しい組織のあり方についてまとめる。

 

◯7章の要約(新しい組織のありかたと各個人の独立、自立)

 みなが企業(組織)に皆が求めるものが二つある。一つ目が安定した生活である。二つ目は自己実現である。組織は各個人の自己実現のために何ができるか考え、実践しなければならない。

 自己実現欲求の最たる存在はアントルプレナー(起業家)であるが、現在の組織にアントルプレナーを推進し、評価する土壌はない。

 リーダーは上によって「選ばれた」エリートであってはならない。一見エリートが組織を引っ張る良い構図に見えるが、チーム内で競争が生まれてしまうため良くない。競争は外とするべきで、チームワークは最大化するべきだ。逆説的ではあるが、チームにおけるリーダーも重要なのである。チームにおけるリーダーは知識と行動のギャップに敏感であり、ギャップを発見し、埋めなければならない。この時チームのリーダーはキャプテンでもある。リーダーのメンバーとのフラットな関係がチームワークを活性化させる。

 自己実現の話に戻る。これからの社会で、一人で生きていくためには、逆に人とつながれる能力が必要になる。独立(自立)と孤立は違う。人とつながっていっしょにコラボレーションしていく能力が必要である。つまり人と会って話をし、すぐに付加価値のあるアウトプットを出せる能力が必要だ。

 人とのコミュニケーション能力ではなく、コラボレーション能力が求められる。コラボレーションのためのリーダーシップもが求められる。

 コラボレーション能力のある各個人が人とつながりに行き、プロジェクト成功に向けコラボレーションし、信頼を築く必要がある。この信頼を獲得し続けることで、各個人が発する信頼に基づくネットワークができあがる。

ひるね姫について

しばらく更新が途絶えていましたが、神山監督のひるね姫が非常に良くできた物語だったのであれこれ書かせてもらいます。

 

ひるね姫に関する散らかった考察

物語の中の夢の世界
物語の中の現実世界
そもそもいま私たちが暮らすこの現実世界
の3つのラインで考えたい。各切り口がしっかりとはしてないが番号でリンクさせて書いた。

 

物語の中の夢の世界
1 ハートランド王国
人が機械を作ることがすべての国。そして機械を使ってこそという価値観。
2 魔法を禁じている。魔法とはソフト技術であり、人の手を介さないもの。機械が自らの意思で動くためのもの。自我。人と機械という主従の関係、境界ありきの関係を次へ進めたもの。
3 魔法の使い手としての娘
王は魔法に対して心を開く、価値を認め始めている。王座を狙うもの。魔法のチカラを我がものとして人気になる?
4 鬼が現れる。魔法を持つ機械でないと戦えないという話。ピーチが完全な魔法ではない中間的な部分を演じる機会もあった。人と機械のシンクロとも言える?でもこの段階だと鬼を倒しきれない。魔法は肩を並べるようなイメージ? その後完全な魔法によって鬼を倒す。
5 羽の演出について。根ではなく羽。根は過去思い出、羽はビジョン展望かな?地に足つけることを根とするなら、羽生やして飛んでいく姿は対比的にも見える。おそらくピーチが宇宙に行き、帰れなくなるのは会社の現状との比較。完璧な羽、魔法ではない段階で世論にさらされていることの例え。その後に完全な魔法を持つ娘、ココネだったが、のチカラで戻ることができる、つまりしっかりと飛べたという演出。オリンピック成功との対比になっているはず、現実の方のラスト以降の話とリンク。
6呪いの呪文について
炎上しろとも言っていたし、これは今のSNSをはじめとしたよの評価のことか?鬼に加担するチカラ。
7王、父について。過去は魔法に反対。今は考えを改めている段階。娘からの直接の力なしでは完全な魔法は使えない状況。こちらでは結果としてピーチと娘という夫婦の構図で完全な魔法を使っていく。その後ここね、娘が完全な羽の使い手として機能
8ピーチと鬼。ここはそんなに深くは捉えなくていいのかもな。ただ問題でありそれを敵とした場合の対象の喩えというだけだろう。でも岡山、桃太郎とリンクしているのは面白い。

物語の中の現実世界
1自動車会社
ハード屋さん。人が車を使うことに価値を置く。
2ソフトとして自動運転技術を受け入れない。自動運転技術とは、人がしていた部分を機械が自らの意思?判断で行うもの。運転部分を取って代わる。
3ソフト、自動運転の使い手としての娘
社長は自動運転技術に対しての価値を認め始めている
社長の座を狙う。自動運転の技術の功績を我がものにする?
4オリンピックが立ちふさがる。完全な自動運転による演出でないと世の期待を裏切ることに。現状会社は部分的自動運転までしか確実ではなかった。最後のシーンを通して完全な自動運転を我が味方に付ける形になる?
5羽の話。こっちでこそ過去思い出の根、ビジョン展望の羽ということ。心羽でココネということもそう。羽で飛ぶことは完全な自動運転をオリンピックで行うこと。その決断段階と世論の話、ないしまだ技術的に不完全な段階であるのがラスト前。その後完全な自動運転を間接的に娘からいただく。そしてしっかりと飛べる
6こちらでは世論、会社の危惧などがそれにあたる。現状不完全なので叩かれていると言う状況。
7社長、父について。ハード屋さんの過去から、今は自動運転に対しての価値を認めつつある段階。なんなら手探りに実行に移している。こちらも夫婦としての自動運転の技術が実際のところ。ココネは社長と夫婦の間をつなぐ役割をする?
8戦いの構図。桃太郎と岡山。オリンピックという直近の短さでもって課題を浮き彫りにしている。

そもそも私たちが暮らすこの現実世界
1 機械を使うという現実。人工知能の発達による機械の一人歩きへの危惧している現状
2 今で言う所の人工知能に対する漠然とした受け入れない、恐怖のような風潮。ソフト出会った部分が大きく見て人工知能の話だと思う
3 魔法の使い手は現代だと何か。おそらく人工知能をはじめとした技術革新に関するアーリーアダプター、ないしイノベーターのことだろうな。そもそもITの素養のある若者世代のことかもしれない。これから共生へと向かうに対して変えていく側のこと。
4 鬼でありオリンピックに当たる課題というか世の壁は何か。現代においては…何だろう。シンギュラリティ関係の何かしらかな?自動運転の時の法的なものや何かしらも同じ領域。職業についてとかもかな?そういった世間のイノベーションに関するネガティヴイメージかな?
5 現代における根と羽に当たるものは何か。根は過去にのみ、懐古にのみという視点。羽は今までを踏まえてより良いものをという視点からなる革新的な視点。世間一般の変化に対する消極性、悲観的な目線に対する主張だろうか。変化を恐れず前向きに行こう!という羽的な主張の表れか?ここでも人工知能についての世の云々を感じられる。
6 呪いの魔法であり、作中におけるマスコミ、SNS等の風評部分の表現はどんなことを示しているか。これは割と物語の中の世界のことが直でリンクしているかもしれない。下げる、落とすといった批判をやめないかという意味か。漠然とした不安や変化への恐怖のみを掻き立てる、考えることを放棄させる洗脳的恐怖、不安、批判の駆り立てに対するアンチテーゼ?マスコミ、SNS辺りに対する歪さに対するものか。
7 王、父の存在について。以前は新しいものに対するアレルギーでもって受け入れなかったが、もっと早くに価値を見出せていればということで変化しようとしている段階。これは社会全般の上の世代に対する見本的なものかもしれない。耳を傾けよう。取り敢えず否定は止めてみよう。まだまだ変われます、という前向きな要素も強いことと思う。
8 鬼、オリンピックに当たる課題とは?おそらく物語では2020のオリンピックという形をとっているが、人工知能に対する世の雰囲気のことや実験室科学系=科学であり世の中にそれそのものが浸透しすぎていることといった大きな課題を意味しているのではないか。人工知能に関しては共生へと向かっていることをただただ表現していたはず。いままで人がハードを支配してきた構図であったが、今後は共生へと進もうという話。支配されるのではという漫然とした不安の視点に対する前向きな見解でもらうだろう。支配する、されるの視点から共生へ。人工知能に関してはこの主張に尽きるはずだ。またここでいう実験室科学とは野外科学(民俗学、地理学など)との対比にあたる。実験室科学は一般的、普遍的、再現可能、無個性、客観、分析、数値的尺度などなどのことである。野外科学とは固有的、限定的、唯一的、個性的、主観も主観と分かればそれで良い、探検と観察と集積からの関係の創出、評価や価値も人それぞれで良い、というもののことである。今の世がこの野外科学的な領域が無視され、それがゆえに各個人の評価や価値は他に依存し、主観的、情緒的なものが無視されがちな世の中になってはいないか、ということだ。身近なものとしてSNSやマスコミなどが浮き彫りになるはずだ。呪いの魔法という喩えを取っていたが、その呪いとは歪に浸透した実験室科学系のみの科学的世の中のことだと思う。実験室科学系が悪いと言っているのではなく、偏ってることが当然、そこに気付けない世の中そのものが歪ということだ。きっとみな息のしにくいことと思う。その一部分を限定的現実である物語の上で一例として形付けたのではないか。

 

まとまってはいなく、ひるね姫というものが社会に対する強烈な風刺、比喩になっていることにいろいろと思ったので書きました。この風刺が前向きな視点でもって語られているところもこの物語を良しとする所以にもなっています。

 

2017/4/5

選考に向かう電車の中で

出来事報告の日記

 10日間体調がずっと悪いというのも生まれて初めて。非常に困っていますが、やっとこ会話できるくらいまでは回復しました。

 

 ここのところは手書きのエントリーシートを書き上げて送り、体調悪いながらも居酒屋アルバイトにはちょくちょく入り、1次選考を兼ねた説明会に2つ参加してきた。

 

 この手書きのエントリーシートを完成させるのに12時間近くかかった気がする。というのもエントリーシートを書くことがこの段階で初めて(おそらく遅い方)だったので、まず自分の中の探索、書き出しから始めたためである。今までこれから自分がやりたいこと、という軸を作り上げるための内部探索とも言える段階は踏んできたのだが、企業でやりたいこと、学生時代に頑張ったこと等に関する内部の探索、整理、そしてアウトプットがまだだったため時間がかかった。だがやっていて最後に文章にする段階では楽しさと爽快さがあった。KJ法における創造的作業に近いことをしているのだが、どうようの喜びがあった。少なくとも自信を持ってエントリーシートを書き上げることはできたことと思う。

 

 業界で言うと「教育」業界なのだが、とある2社の説明会へ赴いてきた。どちらの企業も説明会を受けたあとで、実際に志望しようと思えている。思いの外自分の中にあった軸に近いこと、自分が考える教育云々といったところと企業の話してくれる内容が気持ちいいほど重なったことには驚いた。私の考え、軸のようなものは所詮実践が伴っていない私の過去、反省などからできたものだが、長年実践した上で確たるものとして出来上がっている企業の肝の部分と重なったと感じたときは本当に気持ちよかった。実際に実践したら様々な課題や思い違いが出てくることだろうが、そのことを今から気にして可能性を狭めても意味がない。いい意味でこの一致に乗っかろうと思えている。

 

 読みたい本も溜まっており、論文も読み始めなければいけない。また趣味であり自分の領域でもある漫画には毎日触れ続けていきたい。そしてアウトプットに至る流れ「KJ法AB型のような」ものにもっと慣れていかなければならない。せっかく良い技術を使い始めたのだから、これを自分の中で当然の技術に落とし込まなければならない。

 

 とあれやこれややりたいこと、やるべきことはたくさんある。だが、自分のこれからの太い軸をもとに、今できることを最大にしていこうと思うばかりだ。

3.11に関するあれこれ

 日付は3/12だがあれこれ書いていきたい。

 ここ最近3.11についてのテレビ番組をいくつか見ていた。津波の引波が恐ろしいということを証言やシュミレートをもとに再現した番組。当時の原発事故発生後の問題を分析した番組。除染作業の実態に関する番組。各基準値に対する疑問を取り上げる番組。本当に戻っていいのかといった被災者の声を取り上げた番組。本当に様々な番組があった。

 

 震災を忘れないでというメッセージをもととしている番組が多かったことと思う。震災を直接経験していない人たちの中で記憶が風化していくことを良しとしないということだろう。ここで今回は震災を忘れないで、つまり震災の記憶を忘れないでということだと思うが、この「震災の記憶」についてあれこれ考えたい。

 

 震災の記憶はもちろん人によって様々である。実際に被災した方々の経験に基づく記憶は被災していない人のものとはまるで別物であろうし、その記憶もその人によって別々であろう。ではどういったことが記憶として残り続ければ良いのだろうか。

 どんな記憶であれ、各個人の中にこれからという視点が必要だと思う。

 仮に津波の話をしよう。津波の恐ろしさを映像で目撃し、記憶にとどめる。◯◯人もの犠牲を出したと数字を記憶にとどめる。地震の後どれくらいで津波が来るのかという経験的知識を記憶する。などなど、これらの記憶はきっと番組などを通して自然と根付いているものではあると思われる。

 だが果たして「震災の記憶を忘れない」というメッセージはこういう段階のことを言うのだろうか?きっと違うはずである。これらの記憶に各個人がこれからのためにどうこの記憶を活かすかという意味付けを加えて初めてこれからのための記憶として消化されるはずである。

 少し被災者の方々からすると暴論と捉えられるかもしれないが、津波の恐ろしい記憶を直接的にしろ間接的にしろ得たとある家族がこれからのことを考え、津波の恐れがある地域には住まないと決断することも良い意味での「震災の記憶を忘れない」ということなのだと思う。

 震災とともに原発事故に関する記憶も多くの人の中に残っていることと思う。だがこれもこれからの目線を追加した意味ある記憶となるべきなのだと思う。

 よくわからない原子力放射性物質に関する科学的な部分。だが電力という形で恩恵を受けていたことを考えるといささか気持ちが悪い話でもある。こういった記憶から身の回りの科学に対する興味、関心が前進するのも一つなのだと思う。

 原子力の恩恵を受けていた街が一変してしまうという一例であった。街一つが機能しなくなるだけの危険さとの引き換えの恩恵であったということを痛いほど知らしめたと思う。その記憶から原子力の恩恵を受けた地に住まないと決める人もいる。また、恩恵を受けている地域が脱原子力を真剣に考える。国全体で脱原子力を進めるための記憶になることもあると思う。こういったこれからのために記憶が意味を持つことが忘れないということなのだと思う。

 脱原発の話について少し考える。いきなり原子力は恐ろしいから脱原子力、ではあまりに建設的でないしもっと記憶から問題の根本を考えるべきだと思う。エネルギーの問題に行き着くのも一つである。他の方法でエネルギーを補えれば脱原子力も可能なのだと考える。その際現在の消費エネルギーにも目を向けることもあると思う。電気代の上昇との問題を予想することもあろう。また、新エネルギー側の前進につながるかもしれない。これから、という視点で得た脱原発の考え。そしてそこにいたるプロセス的部分から広がる様々なこれからの視点。やはり原発事故で街が機能しなくなった。原発放射性物質は恐ろしい。沢山の人がもとの生活を失った。といった出来事的記憶にこれからの視点をまずたさなければならない。(こういうことが言えるのも他人行儀っぽくて大変恐縮である)この痛すぎる記憶をただ眺めるように覚えているだけではなんの意味もない。そんな手に余る技術である原子力に頼っている現状をしっかりと見つめ直し、本気で脱原子力を進めるというこれからのための記憶としなければならないだろう。

 このことは人の記憶だけでなく国としての記憶ともとれ、東電としての記憶とも取れる。過去は意味付けによってのみ各々の中に記憶(経験)として生きる。そしてその記憶(経験)は日々意味的に更新され続ける。そして過去に戻ることはできないのでこれからのためにその記憶(経験)はある。そもそも反省というものは過去に対するこの姿勢からくるものだろう。だからこそ国、東電、各個人、マスコミなどなど反省するべきなのだ。そしてこれからのために動いてほしい。

 少し別の話だが、震災はそもそも終わっていない。被災者の方々、機能しなくなった街はまだそのままなのだ。今、被災者に国、東電(ないしマスコミ)は体を向けられているだろうか。被災者の方々がこれからさきどうしたいのか、そこと真剣に向き合い続けてほしい。

 震災直後に国、東電、被災者(、マスコミ)の関係があったと思う。各々の思惑が先行し、まずどこに対して体を向けるべきか見失っていたことなのだろう。被災者(国民)に国、東電はまず体を向けなければならなかった。原発事故後、人を第一に考えて動かねばならなかった。痛々しいほど無残な国としての結果であったことだろう。次はどんな形であれ想定外ではひどすぎる。そもそも想定内ならうまく振る舞えたのだろうか?これは国がしていい言い訳ではなかろう。マスコミにも当時の問題点を分析したり、責任の在り処に関する話ばかりを取り上げるのはやめてもらいたいものだ。当時の問題や原因を分析したのなら「こうすればよかった」、「次に同じような状況が起きてしまった場合、国、東電はこのように動くべきだ」、のようなこれからのことを伝えてほしいものである。やみくもに過去をほじくるだけで終わるようなことはするべきではない。それではこれからに対して何も生まれないだろう。

 ああいった場合、人はパニックに陥る。そこで国はどっしりと人のために構えていてほしいものである。それができればきっと国民はほんとうの意味で国についてくるはずだ。歪な愛国心をマスコミで強めるということとは次元が違う話だ。

 

 少し尖ったことを文脈なく語り連ねてしまった。だが、この過去に対する姿勢はすべての過去経験記憶に対して言えることである。みなこれからのために各々の過去を意味的に更新し続けてほしい。

 

2017/3/17 バイト後自室にて

攻殻機動隊の実写映画化関連のあれこれ

 攻殻機動隊の実写映画化に多大な期待を以前から寄せているので今回は攻殻機動隊の話を始めとした科学に関するあれこれを書き連ねたい。思うままに書き連ねようと思うので文章としてははなはだ読むに耐えないものになってしまうかもしれない。

 

 スカーレット・ヨハンソンが主役である草薙素子(少佐)の役を演じる攻殻機動隊実写映画、これはCMなどを拝見するに「攻殻機動隊 ghost in the shell」(押井守監督、1995)というアニメ映画作品(攻殻機動隊のアニメ化の原点)がベースになっているようだ。少佐のボディ製造シーン、光学迷彩や摩天楼からの降下のシーンなどなどが再現されていると見て取れた。私はこの攻殻機動隊 ghost in the shell」(押井守監督、1995)というアニメ映画に相当な思い入れがある。何度見たかわからない。アニメ映画としての映像、攻殻機動隊の世界観、哲学とも言える人間の本質に迫る奥深さ、どれをとっても魅力的である。先日東京国立近代美術館シネマホールで行われたイベントに行った際、スクリーンで初めて「攻殻機動隊 ghost in the shell」を体験したのだが、その感動たるや今までDVDで何度も見てきたが、それとは比にならなかった。

 

 と、私の攻殻機動隊 ghost in the shell」に対する愛はこのあたりにしておいて、攻殻機動隊の実写映画(以後スカヨハ攻殻)に何を期待するのか書き連ねたい。

 一つ目は攻殻機動隊の世界観を良い意味で軽く世の中に広めてほしい。どうも攻殻機動隊の世界観は難しいという印象を与えがちな気がする。確かにあの世界観にとっつきやすさはあまりないように感じる。だが、今回の作品は実写映画の形を取っている。そして時代も1990年代とはまるで異なるものになってきている。どんな人が見てもワクワクするようにあの世界観を伝えてほしいものなのである。幅広い領域の科学や哲学が攻殻機動隊の世界観の土台にある。これを小難しく伝えるのではわかりにくい授業と何も変わらないのだ。だからこそ、幅広い領域の興味、関心を掻き立てられるような温度にしてほしいものだ。単にカッコイイ、近未来を感じる、程度の温度でも十分かもしれない。

 二つ目はCGで未来の描写のみをするのではなく、「実際の現実の一部」を紹介する機会にしてもらいたい。攻殻機動隊の世界観が生まれたのは20年以上前の話である。現在、その世界観の中で語られた技術の一部は実装されているのである。具体的な例として光学迷彩のシーンがあげられるだろう。あのシーンはフルCGで作られているのではなく、現在存在する光学迷彩の技術品を利用して撮影されているようだ。SFというジャンルにおいて、表向きに取り上げる技術を始めとした思想的部分は未来のことでなければならないかといったらそうではない。物語の思想的部分の一部が現在の最先端技術に触れてもらうという意味のものであっても良いはずである。

 三つ目は科学技術の流行となっている分野(人工知能が一番はじめに浮かぶがVRやARなども)を良い意味で広く平らに均す役割をしてほしい。攻殻機動隊の世界と人工知能は深いつながりがあるのはもちろんである。しかし、攻殻機動隊の世界にはその他の様々な科学分野の思想と哲学が込められている。生物、化学、心理、認知、機械、情報などなど様々な分野の科学が基盤にある。こういった分野的にも豊かな基盤を持つ攻殻機動隊の世界を通して社会における科学分野の流行が偏った方向に行かなければなと思うのである。科学のことばかりを言っているが、哲学、人間定義などといったもっと人間と学問の関係における根の部分も扱っているのでそちらも見逃してもらいたくはない。とても社会(一般)に目も触れられないようなもの、しかし非常に重要な領域を再び表に晒す機会にもしてほしいということである。

 

 私が攻殻機動隊を初めて見たとき思ったことは「このような未来が訪れるのだとしたら科学をむやみに発展させるのは良いことなのか分からない」という消極的なことであった。仮にスカヨハ攻殻が一大ブームとなった際、このように科学技術の発展促進に対して消極的な考えを持つ人が出てくると思う。きっとこの消極的な考えの根本には「人間とは何か。機械とは何か。はたまたその違いがなくなってしまったらどうなるのか。」といった物があることなのだと思う。(ここを細かく話し出すとキリがないので一旦割愛します)確かにこれは漠然と恐怖であり消極的になるに十分であるかもしれない。だが、この漠然とした恐怖というものに立ち向かうきっかけができたと感じてもらいたい。その立ち向かうための方法が、各々が考えることなのだと思う。しっかりと考えるのである。未来に対して、未来の自分に対して、ないし自分そのものに対して、もっとしっかり考え直す機会になるのではないかと思いたい。考えるとは何か、そういったことに対する見つめ直しの機会になって欲しいのである。1995の攻殻機動隊では草薙素子という主人公が物語を通して考え続ける姿勢を崩さなかった。自分のこと、世界のこと、未来のこと、過去のことを考え続けていた。

 

 最後に。長々と書き散らしてしまったが、一言にしてみたい。スカヨハ攻殻を通して各個人が真に考えるということを見つめ直し、始め直す、もしくは始めるキッカケとしてほしい。攻殻機動隊は大量の思想と哲学の上に出来上がった大物語なのだから。

 

2017/3/11 自室で就寝前に

今日は3月9日

今日は3月9日

 

 自分に近い世代だと初音ミクの日であり、少し上かつ幅広い世代にはザクの日かもしれない。

 

 でも誰にも共通な日としてサンキューの日(ありがとう、感謝の日)ってことで「ありがとう」という言葉について考えたい。

※サンキューの発想自体日本語の数字が分かる人のみで誰にも共通ではないかもしれないが。それに芸人のパンサー最近見ないな......

 

 私自身この「ありがとう」という言葉には思い入れがある。どんな場面でも「ありがとう」に置き換えられる言葉は多いものだ。人に何かしてもらったときの「ごめん」、部下などが良い働きをした時の「よくやった」、自分の不甲斐なさからの「ごめんなさい」などなど。これらすべて「ありがとう」に置き換えられる。

 

 最初の「ごめん」は申し訳無さ、気を使った結果の「ごめん」だろう。感謝の言葉にすればいいところだが日本人の癖なのかもしれない。これは「ありがとう」に置き換えられる。

 二番目の「よくやった」は褒める、賞賛する結果の「よくやった」だろう。これも良い働きをしたその人に向けての「ありがとう」に置き換えられる。

 最後の「ごめんなさい」は自分の不甲斐なさといった不足する部分などから迷惑をかけ、申し訳無さの結果からの「ごめんなさい」だろう。これもそんな自分を支えてくれた相手に向けての「ありがとう」に置き換えられる。

 

「ありがとう」に置き換える意味は多くの人の目線を平らにしてくれることだ。「ごめん」「よくやった」「ごめんなさい」などなどは心的、精神的に上下関係を作ってしまう言葉だ。この心的、精神的上下関係を作らず、平らにする魔法の言葉が「ありがとう」なのだ。

 

 なぜ心的、精神的上下関係を作ってはいけないのか。これは正直なところ体験的な部分も大きいのだが、こういった上下関係ができてしまうと人と人の心の距離は開いてしまう。上下関係によって距離というよりも壁ができてしまうと感じ、考えている。こういった距離、壁があると人間関係は仕事のような条件付きの関係(金、義務、責任などによる関係)にとどまってしまい、その関係からは信頼は生まれない。条件付きの関係では信用止まりである。無条件に信じ合える中、それが信頼というものだ。

 

 仕事においても信用のみでのつながりではコラボレーション(チームのメンバーが同じ方向を向いて時間を共有させ、何か付加価値を生むような創造的働きをすること)は生まれないはずだ。これではコミュニケーション(表面上では情報のやり取り、共有ができているが皆が同じ方向を向いているわけではなく、何も生み出せない段階)で終わってしまう。仕事(何かしらのプロジェクト)において皆が同じ方向に向くには信頼が必要である。

 

 この信頼を確立していくことで人は本当の意味でつながることができる。距離や壁も感じない、そういったつながりだ。その本当のつながりが

(知り合い、友人)→(親友)

( 仕事の同僚 )→(仲間、チーム)

などの関係に前進させる。

 人は生まれながらにして人間関係(社会)に生きるしかない。ならこの信頼をより確立することで自分との関係から始まるつながり(人間関係であり社会)をより心地いいものへと前進させたほうがいい。

 

 そのためには心的、精神的に平らな、距離も壁もない関係でなければならない。そのための手近な一歩であり、魔法の言葉が「ありがとう」なのだ。

 

少々感情によった文章になってしまい、理論、言葉の定義ががたがたかもしれないが、「ありがとう」の威力を感じ、あなた自身から実践してもらうきっかけになったら幸いです。

 

(余談)

昨夜バイト中に体調が悪化しました。熱は下がったから大丈夫だろうと思っていたら喉がやられて声がガラガラになってしまいました。咳もひどい。この体調を治しつつ、今後の体調管理を習慣化していきます。

※パンサー尾形結婚発表してた(笑)

 

2017/3/9 自宅で療養しながら

読書と説明会と体調と

また投稿が数日空いてしまったことは正直なところ反省

 

ここ数日は本を読み、学内説明会に行き、体調崩し、漫画読み、友人と話をしたといったところ

 

まず本。これは研究室の課題図書でもあるのだが「会議力 奥出直人著 平凡社」を読み込んでいた。二回読み込んだ。このあとレジュメに起こすのだがこの工程が難しい。小学生、中学生の時は読書感想文を馬鹿にしてやりもしなかった記憶があるのだが、この年になって読書感想文に求められる能力は人にものを伝えるにあたって必要不可欠なものなのだろうと思い直している。

 

この「会議力」という本は新書にあたり、本の中で数々の名著を引用している。この本はこれから研究をすすめるにあたって情報を収集する際の手がかりになり根本を支える一冊になりうる。また研究室同期との横の掛け合いによる相乗効果のようなものを狙っての課題図書だと考えている。周辺の本を含め、情報収集能力、思考力そのものにメスを入れていかなくてはならない。

 

学内説明会では発見があった。SEという職に対してのイメージが企業によって違うと感じられたということだ。どうもプログラムをひたすら書く、プログラミングが趣味レベルで好きじゃないとやっていけないというイメージが強かった。そこで自分の「課題提起、企画、編集、グループですすめる」といった文脈部分とも言える今後やりたい段階とのズレを感じていたため、少し距離をおいてしまっていた。だが、企業によってはこの問題発見、企画などなどの段階に重きを置く企業も多いのだと知れた。実際に問題や課題を現場に足で探しに行くこともあるのかと驚きも得た。これからは何社かSEも検討したいと思えた。

体調を崩した。ここ数日は花粉症も辛かったのだが、熱が出てしまった。半日寝て治すことはできたが、今後もっとスケジュールがタイトになった場合、体調を壊し続けるのは問題だ。というより自分が一番辛い。免疫が低下し始める悲しい年頃でもあるので、体調管理含め、生活習慣を見直す契機にしようと思った。具体的には......

食事面

発酵食品(納豆、キムチ、チーズ、ヨーグルト、味噌などなど)を日常的に摂取する

食物繊維が多い食品(海藻、ゴボウ、キャベツあたり)を日常的に摂取する

今までどうりトマトジュース、野菜ジュース、牛乳は摂取していく

レモン+はちみつ+ヨーグルトをよく食べるようにしてく

生活面

単純に運動する。(日常的に良い姿勢にすることで体幹使う、短距離の移動をランニングに変えるとかそういった段階で変える)

 

何にせよ続けることが全てであるので続けます。(いい加減冷食カップ麺松屋生活から脱出しろということだろう......)

 

ダウンしているときは「よつばと!」と「からかい上手の高木さん」を読んでいた。「よつばと!」は自然と子育てのいい形を目のあたりにできるいい漫画だなと思えた。単純によつばが可愛くて、あのゆったりとした日常に癒やされる漫画でもあるが。「よつばと!」の帯のセンスには驚かされた。色味とキャッチコピーがなんとも素晴らしくて。帯はいつもダサいと思ってしまうことや売れてるアピール、雑なウリ文句が多いと思っていたが、この帯は一味違った。

 

これから先就活、研究がメインとなり、授業がほとんど無くなることもあり、大学の同期とも会う機会が減っていってしまうことは目に見えてわかる。先輩においても4年生はもうじき卒業でこの先合わなくなってしまう人は多いことと思う。「無理矢理にでも会っとかないと切れちまう縁は多い」とどこかで耳にした気がするが、まさにその通りだと思う。3月は就活関係によって自分のことで一杯一杯な時期でもある。だが一方で、せっかくだから人の縁にも目を向けていきたいなという時期でもある。

 

内にも外にも、重要な月である3月をやりきりたい。そう思う。

 

2017/3/8 自室にて