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しーむの日記

日々のあれこれを書き連ねていく外向け日記のようなブログです

3.11に関するあれこれ

 日付は3/12だがあれこれ書いていきたい。

 ここ最近3.11についてのテレビ番組をいくつか見ていた。津波の引波が恐ろしいということを証言やシュミレートをもとに再現した番組。当時の原発事故発生後の問題を分析した番組。除染作業の実態に関する番組。各基準値に対する疑問を取り上げる番組。本当に戻っていいのかといった被災者の声を取り上げた番組。本当に様々な番組があった。

 

 震災を忘れないでというメッセージをもととしている番組が多かったことと思う。震災を直接経験していない人たちの中で記憶が風化していくことを良しとしないということだろう。ここで今回は震災を忘れないで、つまり震災の記憶を忘れないでということだと思うが、この「震災の記憶」についてあれこれ考えたい。

 

 震災の記憶はもちろん人によって様々である。実際に被災した方々の経験に基づく記憶は被災していない人のものとはまるで別物であろうし、その記憶もその人によって別々であろう。ではどういったことが記憶として残り続ければ良いのだろうか。

 どんな記憶であれ、各個人の中にこれからという視点が必要だと思う。

 仮に津波の話をしよう。津波の恐ろしさを映像で目撃し、記憶にとどめる。◯◯人もの犠牲を出したと数字を記憶にとどめる。地震の後どれくらいで津波が来るのかという経験的知識を記憶する。などなど、これらの記憶はきっと番組などを通して自然と根付いているものではあると思われる。

 だが果たして「震災の記憶を忘れない」というメッセージはこういう段階のことを言うのだろうか?きっと違うはずである。これらの記憶に各個人がこれからのためにどうこの記憶を活かすかという意味付けを加えて初めてこれからのための記憶として消化されるはずである。

 少し被災者の方々からすると暴論と捉えられるかもしれないが、津波の恐ろしい記憶を直接的にしろ間接的にしろ得たとある家族がこれからのことを考え、津波の恐れがある地域には住まないと決断することも良い意味での「震災の記憶を忘れない」ということなのだと思う。

 震災とともに原発事故に関する記憶も多くの人の中に残っていることと思う。だがこれもこれからの目線を追加した意味ある記憶となるべきなのだと思う。

 よくわからない原子力放射性物質に関する科学的な部分。だが電力という形で恩恵を受けていたことを考えるといささか気持ちが悪い話でもある。こういった記憶から身の回りの科学に対する興味、関心が前進するのも一つなのだと思う。

 原子力の恩恵を受けていた街が一変してしまうという一例であった。街一つが機能しなくなるだけの危険さとの引き換えの恩恵であったということを痛いほど知らしめたと思う。その記憶から原子力の恩恵を受けた地に住まないと決める人もいる。また、恩恵を受けている地域が脱原子力を真剣に考える。国全体で脱原子力を進めるための記憶になることもあると思う。こういったこれからのために記憶が意味を持つことが忘れないということなのだと思う。

 脱原発の話について少し考える。いきなり原子力は恐ろしいから脱原子力、ではあまりに建設的でないしもっと記憶から問題の根本を考えるべきだと思う。エネルギーの問題に行き着くのも一つである。他の方法でエネルギーを補えれば脱原子力も可能なのだと考える。その際現在の消費エネルギーにも目を向けることもあると思う。電気代の上昇との問題を予想することもあろう。また、新エネルギー側の前進につながるかもしれない。これから、という視点で得た脱原発の考え。そしてそこにいたるプロセス的部分から広がる様々なこれからの視点。やはり原発事故で街が機能しなくなった。原発放射性物質は恐ろしい。沢山の人がもとの生活を失った。といった出来事的記憶にこれからの視点をまずたさなければならない。(こういうことが言えるのも他人行儀っぽくて大変恐縮である)この痛すぎる記憶をただ眺めるように覚えているだけではなんの意味もない。そんな手に余る技術である原子力に頼っている現状をしっかりと見つめ直し、本気で脱原子力を進めるというこれからのための記憶としなければならないだろう。

 このことは人の記憶だけでなく国としての記憶ともとれ、東電としての記憶とも取れる。過去は意味付けによってのみ各々の中に記憶(経験)として生きる。そしてその記憶(経験)は日々意味的に更新され続ける。そして過去に戻ることはできないのでこれからのためにその記憶(経験)はある。そもそも反省というものは過去に対するこの姿勢からくるものだろう。だからこそ国、東電、各個人、マスコミなどなど反省するべきなのだ。そしてこれからのために動いてほしい。

 少し別の話だが、震災はそもそも終わっていない。被災者の方々、機能しなくなった街はまだそのままなのだ。今、被災者に国、東電(ないしマスコミ)は体を向けられているだろうか。被災者の方々がこれからさきどうしたいのか、そこと真剣に向き合い続けてほしい。

 震災直後に国、東電、被災者(、マスコミ)の関係があったと思う。各々の思惑が先行し、まずどこに対して体を向けるべきか見失っていたことなのだろう。被災者(国民)に国、東電はまず体を向けなければならなかった。原発事故後、人を第一に考えて動かねばならなかった。痛々しいほど無残な国としての結果であったことだろう。次はどんな形であれ想定外ではひどすぎる。そもそも想定内ならうまく振る舞えたのだろうか?これは国がしていい言い訳ではなかろう。マスコミにも当時の問題点を分析したり、責任の在り処に関する話ばかりを取り上げるのはやめてもらいたいものだ。当時の問題や原因を分析したのなら「こうすればよかった」、「次に同じような状況が起きてしまった場合、国、東電はこのように動くべきだ」、のようなこれからのことを伝えてほしいものである。やみくもに過去をほじくるだけで終わるようなことはするべきではない。それではこれからに対して何も生まれないだろう。

 ああいった場合、人はパニックに陥る。そこで国はどっしりと人のために構えていてほしいものである。それができればきっと国民はほんとうの意味で国についてくるはずだ。歪な愛国心をマスコミで強めるということとは次元が違う話だ。

 

 少し尖ったことを文脈なく語り連ねてしまった。だが、この過去に対する姿勢はすべての過去経験記憶に対して言えることである。みなこれからのために各々の過去を意味的に更新し続けてほしい。

 

2017/3/17 バイト後自室にて