しんぺーの日記

日々のあれこれを書き連ねていく日記のようなブログです

あれこれのメモ

・家族サービス

 家族サービスという言葉自体どうなのだろう。この言葉自体聞いてて悲しくなるが、自分が子供を持った時に同じく家族サービスをしている、しなくてはいけない、という状況に陥ってしまうだろうか。

 子供が楽しめる、家族が楽しめる何かをする、これが家族サービス。きっと家族のみなそれぞれが楽しめるなら、こんな言葉はないはず。

 どこかで海外では家族サービスなんて言葉自体ないと聞いたことがある。すべての海外で共通とは言えないものの、みな好きで家族と過ごすという話なのだろう。休日、会社の様子、女性、などなど日本に独特に凝り固まった何かしらがあるのかもしれない。

 ペットを連れて旅行できる、これがヒントになりうるかもしれない?子供がいるから~~できない、って状況じゃなくなればいいと思う。子供のせいで、ということ自体良くない。

 子供だけが楽しめる施設に家族で行く、これはどうだろう。もしかしたら大人が子供心を取り戻せば楽しめるのかもしれない。だがいきなり子供のように楽しめ、は難しいはず。この大人の子供心取り戻しの何か、もしくは子供も大人も楽しめる何かしら、これらが今後求められるはずだ。

・地方、町アートなど

 地方の夜を使って、光のアートをするなど、はやっている。規制やコストからも都内と比べて地方が穴場、というのが主な理由だろう。

 地方は活動時間が日中だ。夜にのみのイベント等は一時的な地方創生かもしれない。もちろん一時的でもないよりあったほうがいいとは思うが。地方の方々が提供できる地方創生に近づけられたらと思う。だから地方の日中が切り口になると思う。

・表現領域

 現在表現領域として何があるだろう?というより現在は表現できる手段が膨大になった。かつすべての人が何かしらを表現すれば、だれか知らには届く、そんな時代だ。表現に対するコスト、ハードルが下がりきった時代なのだろう。だからこそ以前よりも形にしてさらし、反応をもとに改良、別の何かしらを形にするといったサイクルを各個人がどんどん回さなければいけない時代なのだろう。

 そこで何を自分の表現領域にして突き詰めていくのか、悩みすぎず動いていかなければならない。自分が夢中になれる手段は何か?自分が今まで好きだった手段は何か?やってみて躓いてもやり続けなければ、形にならない、それだけは変わらないのだろう。いや~厳しい。なんにせよ形にして外に出していく、恥をさらすくらいの覚悟で動いていかなければならないのだろう。プロセスの外化は自主的に、恥をかく前提でどんどんしていくべき。

・子ども、まっさらな目線

 当たり前や常識というやつは、把握していればいい。それが自分自身とイコールになってしまうととたんに動きにくくなる。自分の物の見方や感じ方、ふるまい方が型にはまっているだけでないか、その都度一歩引いてみよう。子供の目線、世界の見え方、考え方は鋭かったりするのだろう。若さに価値がある、ではなく若さの持つ価値も把握しよう、だ。

民俗学等、日本の伝統、固有の歴史と現在

 科学の落としどころってここだと思う。引き上げ、共有、価値の再付加、これらを科学でできやしないか。そうすれば細々と地方で生き残っている、もしくは埋もれている何かしらに価値を付加しなおせるのではないか?ハコモノを作るのではなく、あるものを生かす。これが一番コスト的にもよい。冬眠から目を覚ます、氷を解かす、化石を掘り起こす、こういったことと似た領域なのだろうと思う。考古学の発掘に必要な道具や人、金に当たる手段が科学で何かできないか?

・今でも全人類共通のものとは何だろうか?

 時間や日付、感覚?タナバタリウムのアイデアが面白いと思えた。趣味で小さなコミュニティがいくらでも作れる、それももちろんいいが、どんな人でも共通の体験ができる、昔では当たり前だった話題の共通性の理由を今作り上げようという試み。花火大会も近く長く残っている例なのかもしれない。

・イヤホンからの解放が一例。人間の感覚体験が全体的に、戻ってきている。

 イヤホンは人間の聴覚を耳だけでかつ狭い領域に固定化した。これで満足せよという縛りであったわけだ。しかしフェスを一例に、こういった感覚体験が全体的になってきている、というより戻ってきていると思われる。人間の感覚は衰えたという話もよく耳にするが、きっとそうではない。これもイノベーションに伴う機能の一部劣化と一般化なのかもしれない。印刷技術が一例だが、大量生産に対応する技術とともに劣化した発色等がある。音楽もそうなのだろう。こういった技術の発展と情報の劣化、一般化や作り手の多様化等、メディアを追っかけるのも面白いかもしれない。

 逆に感覚の拡張の技術はどうなっているのだろう。VRは制限、固定の技術。ARとも違う。ARはあくまでプラス、付加だと思う。ここでいうのは感覚を伸ばす、掛け算の領域だ。嗅覚を何倍にもなど。ここで視力が透視なども可能というのはAR側な気がするが。このときバラバラにして拡張ではなく、感覚同士の掛け算かつそれぞれの拡張でどこに行くのだろう。現状VRで分離と固定化も難しいのだから、まだまだ先の話かもしれないが。人は科学技術で全く新しい生物の感覚機構を持てるかもしれない。体験というのも変な気がする。人間が体感できるのかという疑問もある。感覚のアップデートかもしれない。とまぁ感覚とは奥が深く、面白い分野なのだろうと思うばかり。